好奇心そのまま!

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良いプレゼンをするために気をつけていること

今日は大切なプレゼンテーションをしてきました。僕が尊敬する方から、「得難い人だ」と褒めてもらい、とても嬉しく思いました。

 

プレゼンテーションは、様々な場面で高く評価いただけることが多いです。そのため、僕が得意な分野の1つといえそうです。

 

良いプレゼンをするためには、プレゼンの内容が重要であることはもちろんですが、僕は、可能な範囲で身振り手振り動くことと、大きな声で抑揚をつけて説明することを心がけています。プレゼンターが座ったまま淡々とお話しされるとき、僕はどうしても眠たくなってしまうか、または、どうしても集中して聞いていられなくなるので・・・。

 

プレゼンのやり方で意識していることを、言語化してみると、以下の2つを大切にしてきたな、と思います。

  1. 身振り手振り、できるだけ動く
  2. 大きな声で抑揚をつけて読む

 

あとは内容です。僕の場合、専門的な内容を話すことが多いので、専門的な内容を、ほとんど専門的な知識を持っていない方にむけて、専門用語を使わず、前提をできるだけ置かず、ゼロから丁寧にロジックを追う、ということが多いです。難しいことを分かりやすく、池上彰さんみたいな感じでしょうか。

 

プレゼンのとても上手な方には、もっと色々とTipsがあるのだと思いますが、あまり多くのことを意識することは難しいです。自分の場合、これだけでも実践できていると、高く評価いただけるプレゼンができてきたように思います。

 

資料作りについては、もっとこだわりたいですね。以下の書籍は、一部参考にさせていただいたことがありますが、とても役立ちそうです。

 

一生使える見やすい資料のデザイン入門

一生使える見やすい資料のデザイン入門

 

 

 

 

 

 

自分の個性を育てながら他人のことも尊重する、そんな漱石の「私の個人主義」

夏目漱石の「私の個人主義」は、学習院大学夏目漱石がゲストとして呼ばれて、学生に語った講演録です。現在では、青空文庫で読むことができます。青空文庫ボランティアスタッフの皆様、ありがとうございますm(_ _)m

国家のために生きるべしという「国家主義」の考え方が大きな勢いを持っていた時代に、それへの反対の立場として、「個人主義」という考え方を語ったもののようです。

もっとも、漱石が語る個人主義は、「国家主義」の立場の人間がいうような、「国家ではなく個人が大事」といった、単に国家主義の考え方に対立する概念ではありません。漱石なりの個人主義、すなわち「私の個人主義」です。

漱石は、「私の個人主義」の内容として、本講演で、大きく2つのことを述べています。

  1. 自己の個性を発展させるべし
  2. 他社による個性の発展を尊重すべし

他人の受け売りではなく、自分の感じたことを大切にすること。それが、自分の個性の尊重です。漱石は、他人の考えの受け売りをしている限り、いつまで経っても自分に自信が持てず、幸福になれないと考えます。個人が幸福になるためには、自己の個性の尊重が不可欠といいます。

個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。

夏目漱石「私の個人主義

このとき、自分の個性を尊重するということが許されるならば、他人が他人を発展させることも尊重しなければなりません。特に、金持ちや権力者は、金や権力を使って、自分の個性を他人に押し付けることが可能です。だからこそ、個性を尊重するという自由には、必ず義務が伴うことが肝に銘じなければなりません。自分の個性を他人に押し付けられるようなパワーがある人間ほど、そうならないよう、自分の人格形成をしなければなりません。

もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他 を妨害する、権力を用いようとすると、濫用 に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。

夏目漱石「私の個人主義

この漱石の考え方は、今の憲法の基礎にもなっている、自己実現という考え方によく似ています。憲法は基本的に「他人を害しない限りにおいて自由にしてよい」という考え方だからです。

僕には、特に1つ目の講演内容が心に響きました。僕はいろいろなことを知るために、そして生き方の参考にするために、多くの読書をします。しかし、読書をするだけだと、他者の受け売りの領域を出ません。このことについては、自分自身悩んでいました。

自分の感じたありのままを、表現してこその個人主義。これから、自分の考えるところを発信・実践していけるように頑張ろう!

 

私の個人主義

私の個人主義

 

 

転職によりもっと他社に貢献できるならば・・

初めて転職します。

今の会社にはお世話になりましたし、義理もあります。だから、辞めることを伝えることは心苦しいです。

そんなとき、これまでは読み流していた「論語」の一節が目に止まりました。

春秋戦国時代に生きた、管仲(かんちゅう)と召忽(しょうこつ)という2人の話です。2人はどちらも公子糾(こうしきゅう)という有力者の臣下でした。公子糾が権力闘争で敗れて、桓公に殺されたとき、召忽はこれに殉じて死に、他方、管仲桓公に仕えて活躍しました。孔子の弟子である子路は、管仲も忠義に死ぬべきであったのに、生き残って出世したことを批判して、「管仲は立派な人物ではないでしょう」と孔子に言いました。

これに対し、孔子は、管仲のその後の大業を見るべきであり、小さな誠を尽くす(殉死する)という小さな生き方より、世の中に大きく貢献する管仲の生き方の方が優れている、と言ったのです。

義理は大切な美徳ですが、生き残って社会に貢献することは、より尊敬されるべき生き方だというのです。日本における戦国時代の武士道であれば、忠義による殉死が美談となりそうですが、それと比べて、孔子の考え方は「合理的」であるように思われます。合理的な生き方が美しい生き方とは限りませんが、孔子の考え方は現代にも通ずるように感じられます。

現代に置き換えるとどうでしょう。現在の職場に殉じることも1つの生き方であすが、転職によって、より社会に貢献することができるのであれば、転職する方が優れている、ということもできそうです。ただし、より他社に貢献してこそ優れた生き方ということですから、新天地において一層他者に貢献することができれなければ、孔子が称賛するような生き方にもなりません。

孔子の言いたかったことは、単に生き残ることを推奨するものではなく、忠義の美徳を上回るだけの貢献を社会に対して提供できるのであれば生き残るべし、ということなのかもしれません。

今の職場における社会貢献を上回る貢献を新たな職場でできるよう取り組んでいきます。

 

 

確固たる「仮説」をもつことが大切なのだと思う

今の世の中、情報に溢れています。出版物だけに限定しても、世の中にあるすべての本を読むことは、個人の一生をかけても難しいでしょう。

 

新しい本や情報が毎日、凄まじいスピードで出ています。ちなみに、総務省統計局の公表するデータによれば、書籍の新刊点数は年々減ってきているものの、年間で70,000点を超えます。換算すると、毎日およそ200点の新刊が出版されている計算です。

https://www.stat.go.jp/data/nihon/26.html

 

すでに世の中にある書籍を読むどころか、新しい情報をキャッチアップすることすら、テーマを選ばなければ不可能です。好奇心の旺盛は僕などにとっては、目移りして仕方ありません。

 

生き方や思想についても、様々な教えがあります。唯一正しい生き方というのはなく、それぞれの人にあった思想や生き方を、各人が考え、形成していく必要があるのでしょう。自己啓発本は、書店に行けば毎日更新されているかのようです。

 

自由。本当にありがたいことです。「きけわだつみのこえ」などを読んでいると、当時の若者が、押しつけられた思想と生き方にどれだけ苦しみ、「自由」を渇望していたことか、読んでいて苦しい気持ちになります。彼らが今の社会を見たら、どう思うだろうか。こんな時代に生きてみたかったと思うでしょう。それほどに、現代は、個人から見れば、かつてない「自由」を享受する世の中だと思います。

 

 

一方、大きな自由を享受する時代に生きてみると、生き方を含め、自分で選ぶことができることが多くなります。逆に、自分で選ばなければいけないことも多くなります。情報は無数にありますので、どの情報が自分にとって有益なのか考えなければならず、優先順位をつける必要があります。現代では、これが新たな悩みになっているように思います。

 

江戸時代(といっても200年も前ではありません)であれば、学問といえば、まずは四書五経だったと思います。ある意味、やることは決まっており、その段階での悩みは少なかったのかもしれません。

 

現代ではそうは行きません。よりよく生きるために、多くの書籍などに触れていると、いろいろな人がいろいろなことを言っていて、逆にだんだんよく分からなくなってきます。

 

戦争時代に比べると本当に贅沢なことです。生き方を選べるのに、何が問題なのか、と先人たちに言われてしまうかもしれません。しかし、現代しか生きたことのない我々にとっては、やはり「どう生きるか」「いかなる人格を形成したいか」、それをどうやって選んでいくかということは、大切な課題ように思われます。

 

では、どうするか。

 

それこそ「こうだ」というやり方はないでしょう。ただ、そんな中、僕が大切だと考えることは、「仮説」の構築と「検証」です。思想や人格の形成、生き方の選択ということに限らないのかもしれませんが、「これで完成」という状態に至ることは死ぬまで無く、常に「更新中」という状態にあると思います。そして、それが尊いのだと思います。

 

もっとも、多くの情報を入れていくだけでは、混乱してしまいます。「あれもいいし、これもいい」というように。そこで、「更新」という言葉が、的を射ていて良いと思っています。

 

「更新」は「新規作成」とは違います。「新規作成」は、まっさらな状態に何かを作ることですが、「更新」は、現在版がまず存在し、それを改良することです。この現在版を、「仮説」と言い換えることもできます。すなわち、まず「仮説」があって、その妥当性を常に「検証」し、より良いアイデアがあれば、改める、すなわち「更新」するということです。これにより、成長することができるのだと思います。ビジネス風にいえば「カイゼン」です。

 

ここで、私が特に大事だと思うことは、「仮説」を大切にすることです。「仮説」というのは、現在の自分の人格、または、その形成に関わる思想です。常に更新される可能性のあるものであり、常に未完成の状態ですが、現在の自分を形成するものです。

 

この「仮説」がはっきりしているからこそ、新しい情報に接したときに、それが仮説を裏付ける情報なのか、または、仮説を修正しなければならない情報なのかを検証することが可能になります。もし、新たな情報により、さらに良い仮説(生き方、思想)を形成することができそうなら、仮説を「更新」するのです。そうでない情報は捨てます。これにより、情報の取捨選択が可能になり、混乱することが少なくて済みそうです。

 

自分の仮説がしっかりあれば、新しい情報を、仮説と比較することにより、情報を分析することができます。考える「ものさし」になる、ともいえるかもしれません。

 

この点について、西郷さんの言葉から、僕が「これだ!」と思う良い学びがあったので、西郷南洲遺訓より、2つ紹介します。これも更新ですね。

 

賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ縦令人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。

【日本語訳】賢人がすべての役人を統轄して、政権を(天皇に) 集中して、国の本体を揺るぎなく確定しないならば、たとえ人材を登用して自由に進言できるようにして、集団で討議を行ったところで、どの進言を取捨するか、政府の方針はふらつき確定せず、行うことは雑でまとまりがなくなってしまう。 

 

広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我が国の本体を居ゑ風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。

【日本語訳】欧米各国の制度を採用して日本を開明の域に進めようとするなら、それよりも先にしなければならないことがある。まず日本がその基本(国柄)を確定して、徳を持ってそれを支えるようにすることである。そのうえで、日本に見合った長所を各国の制度のうちから選びとって採用する。それも急がないことが重要である。何でもかでも模倣すると、日本の国体は衰え、徳も廃れて、救いようがなくなってしまい、結局は欧米の支配を受けるようになってしまうのである。

(日本語訳は、「新版 南洲翁遺訓 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)」より引用させていただきました )

 

前者は政治のリーダーのあり方についての言葉であり、後者は外交政策についての言葉です。したがって、議論の対象となっている状況は異なります。

 

しかし、その本質は同じだと思います。前者では、人の意見を聞く前に「国体定制」が必要とされ、後者では外国の文明を取り入れる前に「我が国の本体を居ゑ」ることが必要とされています。いずれにおいても、新しい情報(人の意見や外国の文化)をインプットする場合において、情報の取捨選択をし、有効に利用するためには、まず、先に自分の考え(自分の生き方や自国の文化)を確定していなければならない、ということです。

言い換えれば、情報のインプットの前に、確固たる「仮説」を持っておくべきであり、新しい情報(人の意見や外国の文化)に接しては「仮説」(自分の生き方や自国の文化)を検証し、必要な部分を「更新」するべし、ということだと思います。仮説がはっきりしないのに、「新規作成」を繰り返しているだけでは、雑でまとまりのないものができてしまったり、ただの模倣になってしまうからです。

 

情報が溢れる現代においては、西郷さんの教えは、より一層大切になっているように自分では感じています。

 

 

よく体に悪いと言われる「放射線」ってなんだ?

前回、「核外電子」とは何かを調べていたら、β崩壊に行き着きました。β崩壊が起こるとβ線が出てくるわけですが、これは「放射線」の一種です。

 

放射線は、一方で、レントゲンなど必須の医療技術に応用され、他方で、原発による被曝など、人体への悪影響が問題になっています。

 

放射線」について理解が深まると、世の中のことがもっとわかるはず(^^)

そこで、今回は「放射線」について調べてみました。

 

 

1. 放射線ってなに?

そもそも「放射線」とは何でしょうか?

 

電気事業連合会のウェブサイトによれば、以下のように説明されています。

放射線とは、科学的にいうと、高いエネルギーをもち高速で飛ぶ粒子(粒子線)と、高いエネルギーをもつ短い波長の電磁波の総称です。

この中でアルファ線α線)、ベータ線β線)、ガンマ線γ線)、X線中性子線が主な放射線です。アルファ線ベータ線中性子線は粒子、ガンマ線X線は電磁波です。

https://www.fepc.or.jp/nuclear/houshasen/houshanou/shurui/index.html 

 

また、文部科学省のウェブサイトには次のように説明されています。

放射線は、大きく二つの種類に分けられます。「高速の粒子」と「波長が短い電磁波」です。放射線を出す物質を「放射性物質」、放射線を出す能力を「放射能」といい・・・。

放射線には、アルファ(α)線、ベータ(β)線、ガンマ(γ)線、エックス(X)線、中性子線などの種類があり、どれも物質を透過する能力をもっていますが、その能力は放射線の種類によって違います。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/attach/1314239.htm

 

放射線」は、大きく分けると「粒子」と「電磁波」の2種類に分けられ、一般的には高エネルギーのものを意味するんですね。

 

主な放射線として、アルファ(α)線、ベータ(β)線、ガンマ(γ)線、エックス(X)線、中性子線の5種類が挙げられることが多いようです。

 

また、放射線を出す物質を「放射性物質」といい、放射線を出す能力を「放射能」といいます。「放射能」という言葉は、ニュースでもよく耳にしますね。これは、放射性物質が「放射」線を出す「能」なので、「放射能」です。

 

代表的な5つの放射線を、性質により分類すると、次のようになります。

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(イラストは文部科学省ウェブサイトよりhttps://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/attach/1314239.htm) 

 

2. 放射線の利用

放射線は、透過性や電離作用(破壊力のイメージ)を持ちます。これらの性質を活かして、様々な用途で放射線は利用されているんですね。

 

 文部科学省の「中高生・高校生のための放射線副読本〜放射線について考えよう〜」(平成30年9月)の7頁には、以下のように説明されています。

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エックス線は、目に見える光より波長が短く、紫外線よりさらに波長が短い電磁波です。もともと、「未知」という意味で、「エックス線」と名付けられたそうですよ。未知の力が、今や医療では欠かせない技術になっているわけですから、面白いですね〜(^^)

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文部科学省ウェブサイトより引用)

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/attach/1333565.htm

 

電磁波は、波長が長いと透過性は低く、波長が短いと透過性が高いという性質を持ちます。エックス線は、紫外線よりも波長が短いものです。そのため、紫外線のように肌で吸収されたりしないので、日焼けの原因にはなりません。たしかにレントゲンで日焼けしたことはないですね(*^^*)。

エックス線の透過力はというと、体(臓器)を通り抜けるほどに高く、密度の高い骨などは透過するほどには高くない、そんな透過力です。この透過力が、ちょうどいい塩梅なのです!医療を変えてしまったほどにw( ̄o ̄)w オオー!

 

レントゲン撮影では、エックス線をフィルムに照射しますが、エックス線の発生装置とフィルムの間に、人間が入ります。僕も人生で何度かやってもらいました。

エックス線を人間に照射すると、骨の部分ではエックス線が透過しないため、フィルムの骨の背後にある部分にはエックス線が当たらず、フィルムが白く映ります。他方、臓器hはエックス線が透過するため、フィルムの臓器の背後にある部分は黒く映ります。これによって、骨の部分が白く、骨がない部分は黒く写るので、骨の形がわかる、撮影できるというわけですね(☆´∀`)//""パチパチ

 

この技術は、仏像などの中身を「見る」ことにも応用されているようです。国宝を分解するわけにもいかないので、素晴らしい利用方法ですd(>_< )Good!! 

 

レントゲンは、放射線の「透過力」を利用したテクノロジーですが、エックス線の電離作用(破壊力)を利用したテクノロジーも生まれています。放射線治療は、そうした技術の1つです。放射線を癌に照射し、癌細胞を破壊します。これにより、手術でお腹をきらなくてもいいΣ(・ω・ノ)ノ! なんともすごい技術ですねぇ〜

 

3. 原発事故で問題となる放射線

放射線が人体への影響の仕方は、大きく分けて、

の2パターンがあります。そのため、これらの被曝の防ぎ方も、異なります。

外部被曝であればコンクリートの建物の中に入るなどの対応が必要ですし、内部被曝に対しては、やはり摂取しないということになるでしょう。

 

環境省のウェブサイトに、原発事故由来の放射性物質について説明がありました。参考に掲載します。

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https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28kiso-02-02-04.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%AC%AC%E4%B8%80,90%E3%81%AE%EF%BC%94%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 

 

放射線について理解を深め、その恩恵に感謝しつつ、被曝に対しては適切な対応をしていきたいですね。

 

 

 

 

 

 

「核外電子」って何?「核内電子」っていうものがあるの?

「価電子」についてのWikipediaを読んでいると、次の記述がありました。

原子が化合物や結晶等を構成する際に、それらの化学結合や物性は、その原子内の核外電子が深く関わる。

 

ここで、「核外電子」という言葉が気になったんです。なんで核外電子なんや?核が「原子核」のことだとすると、電子が核外にあることは当たり前なんじゃないか。

 

なぜなら、僕が知っている原子モデルは、『原子核(陽子と中性子から構成される)の周りを電子が回っている』というものであり、原子核の中には電子はないからです。

 

↓こんな感じです

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(真ん中で固まっているのが「陽子」と「中性子」、その周りを飛んでいるのが「電子」)

 

気になったので、調べてみました。

 

そうすると、「電子」のWikipediaに、以下の記述を発見しました。

ベータ崩壊の際に、原子核内で発生してそこから出てくる粒子線に含まれる粒子の内の一つが電子である。中性子が発見される以前は、原子核中に電子が存在するという「核内電子説」が存在したが、ベータ崩壊原子核から飛び出してくる電子は原子核中に存在していたわけではなく、弱い相互作用の結果発生したものが放出されているに過ぎない。

 

これによれば、「核内電子」という概念は、歴史的には仮説として存在したけれど、現在は、その存在が否定されている、ということのようです。「核外電子」という表現は、このような歴史的経緯の名残といえそうですね。あるいは、「ベータ崩壊原子核から飛び出してくる電子」と区別する意味で、核外電子と呼ばれているのかもしれません。

 

逆に、「ベータ崩壊原子核から飛び出してくる電子」は、核外電子とは呼ばないのでしょう。

 

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Wikipedia弱い相互作用」より)

 

 

 

自由に動けない電子は「束縛電子」です

物質の固体中の電子には、

①原子の原子核から束縛を受けずに運動できる電子と、

②原子の原子核束縛された電子

とがあります。

 

①の「自由電子」に対して、

②を「束縛電子」と呼ぶそうです。

 

自由電子は、1つの原子核との結びつきが弱く、1つの原子核に束縛されていないので、自由に動くことができます。

 

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電圧をかけると、自由電子が一斉に移動し、これによって、電気が流れます。つまり、電気の正体は「自由電子です。物質には、電気を良く通すものと、ほとんど電気を通さないものがありますが、この違いは、自由電子があるかないかの違いによるのです。例えば、金属の場合、たくさんの「自由電子」があるので、電気を良く通します。一方、ゴムなどでは、「自由電子」がないので、電気を通しません。

 

エネルギーバンドの観点から、自由電子、及び、束縛電子を説明すると、(おそらく)次のようになります。

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エネルギーバンド

 

自由電子」とは、伝導帯(部分的に電子が詰まったエネルギー帯)にある電子です。この伝導帯における電子=自由電子は、容易に他のエネルギー状態をとることができ、自由に動くことができます。そのため、電圧をかければ自由電子は移動し、電流が流れます。金属は、伝導帯を有します。

 

他方、「束縛電子」とは、充満帯(すべてのエネルギー準位が電子で埋め尽くされているエネルギー帯)にある電子です。充満帯に存する電子=束縛電子は、近くに移動可能なエネルギー準位がないため、自由に動くことができません。そのため、電圧をかけても電子は移動せず、電流は流れません。ゴムなどの不導体は、伝導帯及び自由電子を持たず、すべての電子が充満帯にある束縛電子なので、電流が流れない、ということになる(と思う)のです。