好奇心そのまま!

毎回「ちょっと勉強になる」記事を

藤原兄弟の大喧嘩

元々、平均的な日本男児のご多分にもれず、戦国時代や幕末が大好きなのですが、最近は、平安時代が熱いです!

 

平安時代、めっちゃ面白いんですよ!

 

奥山氏の「時平の桜、菅公の梅」が面白かったので、そのついでに、当時の権力争いという名の兄弟喧嘩について語ります(^^)

 

最近まで、「藤原」といえば、藤原道長しか知りませんでした。しかし、そんなもんじゃないでしょうか?小学生のとき、「思い通りにならないことはない!」という非常にわかりやすい権力者の歌を歌ってくれたおかげで、小学生なりに記憶によく残る人物です。

 

しかし、最盛期ともいわれる道長が生まれるより数十年前、あの学問の神様として今も愛される菅原道真公が活躍した時代、このときの藤原が非常に面白いわけです!

 

その時代の藤原を語る上で欠かせないのが、

藤原基経(モトツネ)ヽ( ´ ▽ ` )ノ

です。

 

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藤原基経 <菊池容斎前賢故実』より>

基経(モトツネ)は、4人の天皇の時代に渡って、頂点に君臨し続けた、スーパー権力者。

 

 基経のお父さん(養父)である藤原良房(ヨシフサ)が、藤原氏の全盛時代の礎を築いた人と言われる、やり手の政治家でした。

 

基経は、父の良房のもとで権力の階段を駆け上がって行きました。

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しかし基経、なかなか苦労します。それは、妹との確執があったからなんです。

 

当時の政治を理解するためには、①女性に期待される役割と、②基経と妹との関係が、非常に重要です。

 

妹の名は「高子」。あの有名なプレイボーイ、在原業平と浮名を流した女性です。

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在原業平と二条后(藤原高子)(月岡芳年画)>

 

高子は、清和天皇の奥さんになりました。良房お父さん、基経お兄ちゃんが、藤原権力を高めるために、高子を天皇と結婚させました。

 

当時の公卿の政治力は、帝(天皇)との血縁関係の有無が決定的に影響します。帝と血筋が近いほど、権力を持つのです。そのため、自分の子供が女の子ならば、皇室との婚姻関係を結ぶことが、権力を得るために最も重要です。自分の娘が帝との間で男児をもうけ、その男児が次の天皇になれば、自分は天皇の伯父ということになるからです。

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情けないような気もしますね。娘頼み。


高子にすれば、父や兄の「道具にされている」という想いだったはずでしょう。

 

そのため、とにかく兄の基経と仲が悪い。

 

高子は清和天皇との間に、男児をもうけました。これがのちの陽成天皇(ヨウゼイ)です。

 

基経にすれば、自分の妹が天皇との間に子をもうけた、そしてこれが次期天皇となった。自分の甥っ子が天皇だ!藤原の時代は安泰!

 

・・・のはず。しかし、そうはいきませんでした。

陽成天皇と基経の仲は悪くなっていったのです。

 

なぜ?

 

だって、陽成天皇にすれば、自分のお母さんと仲が悪い人と仲良くする、ってのは難しいでしょう。基経も、どういうテンションで可愛がってやればいいのか。

 

基経「よーしよし、叔父さんだよ〜」

高子「気軽に遊びに来ないでください!息子よ、あの人に気を許してはダメですよ。」

・・・みたいな。

 

そんなとき、陽成天皇が事件を起こしました。人が死ぬ事件だったそうです。陽成天皇自身がやっちゃったのかどうかは議論があるようですが・・・。

 

基経にとっては、これまでやりにくかったし、ここがチャンス!とばかりに、陽成天皇天皇の位から引きずり下ろし、高子と陽成天皇を排除してしまいます。

 

代わりに、基経が天皇に据えたのが光孝天皇です。清和天皇陽成天皇とは、別の系統の方です。

 

この光孝天皇、即位した経緯からして、初めからずいぶん、基経に気を遣っていたようです。というのも、光孝天皇自身は、自分はピンチヒッターだと考えていました。つまり、自分の次は、基経はやはり甥っ子を天皇にしたいだろう、と思っていました。だから、自分の息子は天皇にはならないだろう、と。

 

しかし、基経に警戒されるのはまずい。そこで、自分の息子は天皇にならないことをアピールするために、自分の子供全員を臣籍降下させます。

 

臣籍降下というのは、皇族がその身分を離れて、姓を与えられ臣下のに降りることです。臣下になるわけですから、もう天皇にはなれないのです。

 

気を遣ってますねぇ〜

 

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 しかし、この光孝天皇。55歳で即位しましたが、58歳で崩御、つまり3年で死んでしまいました。この光孝天皇重篤に陥った時、後継者を指名しませんでした。次は、誰が天皇になるべきなのか?最高実力者である基経は考えます。

 

光孝天皇は、前述の通り、基経さんに気を遣って自分の子供が次期天皇にならないようにしていました。しかし、基経にとってみれば、自分の甥っ子、つまり高子の子供を天皇にすえると、また、高子との不仲ゆえに、政治がやりにくくなる。そこで、むしろ光孝天皇の子供を天皇にした方が良いと判断しました。

 

そこで、いったんは臣籍降下によって臣下となっていた光孝天皇の息子(源定省(みなもとのさだみ))を、皇室に復帰させて、彼が次の宇多天皇となりました。光孝天皇にすれば、わざわざ子供たちを臣籍降下させたのに、取り越し苦労でしたね。

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    (宇多天皇

 

基経も、これでようやく安心か?と思いきやそうでもない。

 

阿衡事件と呼ばれる事件が、宇多天皇と基経とのあいだで勃発し、これにより宇多天皇藤原氏を疎んじるようになったようです。そして、この宇多天皇の在位の最中に、基経は逝去します。

 

基経は、自分の死期が近いことを悟ると、自分の息子である時平をどんどん高い役職につけるようになり、時平に、次の藤原を託したようです。この時平は、現在では菅原道真を讒言により左遷させた男として知られています。

 

基経、妹との不仲に苦労しながら、藤原氏の権力を保ち続け、政治の頂点に君臨し続けた男。自分の人生をどのように考えていたのでしょうか。藤原という氏の大きさを守るのに必死だったのか、それとも自分の権力を維持することが生きがいだっただけなのか、あるいは真に日本のためを思ったからこその権力闘争だったのか。

 

一度、基経に話を聞いてみたいですね。